うつ病

ブッダは2600年前に うつ病の治し方を 説いていた

目次

Section1 大人になると 自分を粗末に扱う

般若心経がいくら、この世にはもともと何も「ない」、だから我々の苦も「ない」と言っても、我々にはそう簡単に納得できません。

現に自分は人を恐れ、失敗を恐れ、損することを恐れ、出世はしたい、家も欲しい、金も欲しい、老後も不安だ、この恐れや不安、欲望がなくなるなんて考えられないと、ムッとしている方も多いと思います。

では一歩ゆずって、この世の中には色んなもの、いろんな悩みがあることを認めましょう。でも、それはこの世にとっても、我々自身にとっても本質的なものではなく、第一番目に重要なものでもなく、主役でもないのです。

われわれにとって最も重要なのは、われわれが裸で無一物で生まれてきてから以後に我々を振り回してきた外界の物質や、感情や自我(エゴ)ではなく、生まれてきたわれわれ自身と、それを生み出した宇宙の生命エネルギーなのです。

この世の外的な世界(物質、身体、個性など)はこの世にとっても、われわれにとっても、本質的なものではなく、二義的なものであり脇役なのです。

われわれは赤ちゃんが「オギャー(生まれたぞという叫び)」と生まれて来た時には、尊い生命を生かそう、育てようと宝物のように扱います。ところがなぜか初心を忘れ、自分も他人も大人になるにしたがって粗末に扱うようになってしまうのです。

Section2 本当の意味での 生きるとは?

思い起こしてください。生命が誕生する時の生命に対する畏敬の念を。赤ちゃんを欠点がある、未熟である、と言って責める人はいないでしょう。赤ちゃんは生まれながらに、この世に生きていける本質的な生命力を持って生まれてきたと、不思議なことにみんなが無心に信じていますね。

この生命力に対する信頼感というものはいったいどこからくるのでしょうか。それは我々が心の奥深くでは、何の知識もない、何一つ持っていない赤ちゃんが、そのままで完璧であると知っているからです。

洋服を持っていなくても、車が無くても、特別美しくなくても、特別出世しなくてもいいのです。そうしたことは第二義的なこと、たまたまもらった、この世からのボーナスと考えてください。

我々は今ここに生きていること、脈々と生命が続いていることをあたりまえに感じ、あまりにも無自覚に生きています。

我々は宇宙と一体である自分自身に気づき、もっと自分を信じ、大切に思うべきなのです。

我々自身が宇宙と共にある「本来の自己」の豊かさに気づき、それをより深く知りまっとうすることが、本当に生きるということなのです。

我々が「今ここ」に生きていることが最も大切なのであって、この世の外的な世界、形あるもの(物質、身体、個性など)は、すべて第二義的なことにすぎないのです。

Section3 自分を信じれば 不幸に打ち克てる

我々は身ひとつでこの世に生まれてきて、成長するにつれ、外界からの幸福(富、名誉、愛、力など)を得ようとして生きています。

そしてそれが得られない時に不満をおぼえ、苦を感じます。

しかし、この幸福を外界に求めるという生き方は正解ではないようです。なぜなら、これだけの富、これだけの愛を得たら幸福になれるという絶対的な基準がないからです。

もし得た順に幸福になれるなら、毎年発表される、高額所得者の順位が幸福の順位と言うこともできるでしょうが、誰もそうは考えません。

実際、我々の周囲にはお金にも困らず、家族にも恵まれているのに、いつも、不満ばかり言っている人がいるものです。

そうかと思うと連れ合いを亡くして小さな子供を抱えている人や、自分が体に障害を持っていたり、そうした子供を抱えていても、明るく爽やかに生きている人もいます。こういう人達も最初から、そのように生きてきたのではない場合もあります。では、外的な価値観では不幸なのになぜ明るく生き生きと生きられるのでしょうか。

それは苦しみを経験した結果、それでもけっしてくじけない自分自身の本来の力に気づき、自分を信じられるようになったからです。もし不幸になったらどうしようと思って生きている我々は、すでに不幸に打ち勝っている人より不安なのです。

Section4 あなたを苦しめるのは 自身のエゴ

苦とは、この世の外的な世界、形あるもの(物質、身体、個性など)に我々が振りまわされた結果、起こってくるものです。

宇宙の生命エネルギーと一体である自分自身は、そのままで完全であり尊い生命体であると気づくことによって、我々の人生は少しずつ変わり始めます。

あなたがもし居るべきところに居なかったり、なすべきことをしていない場合は、あなたが、本来の自分の内心の声に気づきそれに信じ従うことで、なすべきこと、居るべきところに向かって歩き始めるでしょう。

人生で問題が起こった時、うまくいかないことが続く場合、それはわれわれが、「今ここ」に「本来の自分自身」を生きていないことへの注意信号なのです。

うまくいかないのは、本来の自分にとって外側の自我(エゴ)や感情につき動かされて生きているからです。

感情や自我(エゴ)にがんじがらめになった古い自分を捨て、心の奥深くにある本来の自分を感じられるようになれば、エネルギーは正しい方向を与えられ、奔流のように流れ、我々の人生は力強く、生気に満ちたものへと急速に変わっていきます。

そして、感情や自我(エゴ)ではない本来の自分自身に気づくことによって、最終的にはこの世の形あるもの(物質、富、美、権力、享楽など)への執着と縁を断ち切ることができるのです。

Section5 エゴを捨てると 苦から解放される

あなたが爽快に生きることを邪魔しているのはあなたの感情・自我(エゴ)です。こう言うと冗談じゃない、何で感情や自我(エゴ)が邪魔なのだと言われるでしょうから、こう言い換えましょう。あなたを苦しめている感情・自我(エゴ)と。これらが不必要であることには同感だと思います。でも、バカ言うな、俺を苦しめているのは上司のAだ、借金を返さないBだ、俺をふったあのにくい女だと、具体的な人物が浮かんでくるのかもしれないし、あるいは一戸建ての家が一生持てない、一流企業に入れなかった、営業成績が伸びないといった事柄が出てくるのかもしれません。

でも、そのことで傷つき悩んでいるのは、貴方の感情・自我(エゴ)であることにはかわりありませんね。あなたを苦しめている事実があったとしても、そのことによってあなたの感情が、自我(エゴ)が傷ついたり打ちのめされなくなれば苦はなくなりますね。では、ひどい目にあったと思っている感情・自我(エゴ)を捨ててしまいましょう。

そんなこと簡単に出来るわけないとムッとしていますね。確かに簡単ではありません。でもあなたは今まで自分を苦しめているのは他のものではなく自分の感情や自我(エゴ)が主体であると気づいたことがありますか。気づいてもどうにもならなかったのではありませんか。あなたは感情・自我(エゴ)という心の外套を脱ぎ捨て、本来のあなた自身に気づくことが、苦から解放される第一歩なのです。

Section6 自分の感情が 自分を苦しめている

我々の悩みというのは、大抵、もう過ぎてしまった過去の出来事や、まだ来ていない未来への不安ではないでしょうか。全く現在のことだけに苦しんでいるということは案外少ないものです。

例えば、明日何かの重要な会議があって、そこできちんとした発言ができるかということで悩んでいるとしましょう。もしかしたら、夜寝床に入ってからも、それが気掛かりで目が冴えてしまっているかもしれません。

まずよく確認しておきましょう。我々が悩んでいるのは明日のことですよね。明日のことが心配のあまり、今晩を台無しにしてるというわけです。

我々が今晩心配して眠れなくなることで、明日の会議で、それだけうまく発言できるようになるでしょうか。そんなことはありません。逆に、うまく行かなくなる可能性の方が高くなります。

我々が心配しているのは、明日の会議でうまく振る舞うことができるかどうかということなのに、我々のその心配は、うまく行かせることに全く足しにならず、逆に失敗の確率を高めているというわけです。

我々がすべきなのは、まず、そういう現在の状況(自分の感情が自分を苦しめている)をよく認識することです。大抵の人は、自分を苦しめているのは、他でもない、当の自分の感情・自我(エゴ)であることに気づいていないのです。

Section7 忘れ去られた 真実の喜び

ブッダは自分の感情(心の働き)を「これは自分のものではない」と見る習慣を付けなさいと言っています。大抵の人は驚くでしょうが、ブッダは身体も心も自分のものではないということを繰り返し説きました。つまりこれが、五蘊皆空(ごうんかいくう)ということです。それが徹底して分かったときに(「照見五蘊皆空」)、全ての苦悩から脱却できると言います。(「度一切苦厄」)。

これは、これまで述べてきたことからある程度は分かって戴けるでしょう。心が過去のことや未来のことを考えて喜んだり、悲しんだり、後悔したりするのは、我々がやっていることではないのです。また、その心の動揺とともに、身体が「不安」の反応をしたり、「心配」の反応をしたり、あるいは「後悔」の反応をしたりするのは、我々がやっていることではないのです。

では、我々の感情を動かしているのは何なのでしょうか。

それは、「色・しき」の世界からの情報です。生まれてからこの方、長い間の習慣によって、我々の心は、「色」の世界と分かちがたく結びついてしまい、それについて意識することさえできなくなっています。

快も不快も、喜びも悲しみもすべて外部の対象と結び付けられていますから、我々は自分の心の中に、「色」の世界とは別の、真実の喜びの源泉があることを忘れてしまっているのです。

Section8 愚から脱け出す 本来の自己

ブッダはくり返し、我々が自分だと思っているのは、実は自分ではないぞと説いています。「自分は、自分は」と言ったり、思っているのは、感情・自我(エゴ)であって、われわれの実態ではないぞと説いています。またこの世の形あるものも、実体というものではないぞ、すべて「空・くう」であると言います。

つまり、「わたし、あなた、あれ、これ」という個別の実体などはないということです。

しかし、われわれは愚かにも、形あるものの世界に迷い込んで一喜一憂しています。

自分が生まれ出た宇宙生命体について考えることをせず、まるで自分の意志で生まれ、自分の力で生きていると錯覚してしまいます。自分の存在への問いかけを忘れ、物質の世界で人生の意義と満足感を自分の力だけで得ようと悪戦苦闘しています。

われわれは物質的目的を達すればより多くを望み、達せられなければ不満を感じ、どこまでいっても真の安らぎは得られないのです。

ではどうしたら実体のないものを追い求める愚から脱け出すことができるのでしょうか。

それは誕生以来心身に付着してしまった垢を捨て去ることによって、生まれたそのままに尊いあなた自身に気づくことです。

ブッダの説く「本来の自己」に気づき、無限のエネルギーと可能性を持った存在であることを実感し、自分を信じることによって形ある世界は第二義的なものになっていきます。

Section9 苦悩は 無明の世界から来る

感情・自我(エゴ)が自分のものではないし、従って自分の思い通りにならないのなら、我々には苦を取り除く力はない、そう思うのが自然ではないか、そう考える人もいるでしょう。

何故、全てが空であると知ること(「照見五蘊皆空」)が苦からの解脱(「度一切苦厄」)を可能にするのでしょうか。

ポイントは「知る」というところにあります。

「悟る」というのは「知る」ということと同じことを意味しています。「知る」ということと同じことを意味しています。「知る」ことを徹底することが「悟り」です。

逆に「知らない」ことを「無明」と言います。ですから、仏教というのは「知らない」から「知る」へという移行をテーマとした宗教なのです。

我々が昨日の会議でうまくプレゼンテーションできずに、家に帰ってきてからもそのことをくよくよ考えているとしましょう。その時我々は、自分が、考えても取り返しのつかないことをくよくよ考えていることを「知って」いますか。「気づいて」いますか。「知らない」はずです。そういう時の我々は「くよくよ考えている」あるいは「取り乱している」だけです。

つまり、その時の我々は「無明」の世界にいるわけです。苦悩というのは、自分が何をやっているのかを「知らない」ところから起こってくるのです。

Section10 知らないから 愚かなことを続けている

我々が、自分は「くよくよと考えている」ということに気づいたとします。するとどうなるでしょうか。「くよくよと考えている」ことができなくなるのではないですか。

自分のやっていることが、何の為にもならないということが分かると、人はその行為を続けることができなくなるものではないでしょうか。

そうは言っても、やはり気になると言うかもしれませんが、少なくとも「くよくよ」と考えるのは止めるのではないですか。今度はもっとうまくやろうとか、準備に時間をかけようとか考えることはいいことです。問題は「くよくよ」することです。

人と待ち合わせして、相手が遅れてくることがあります。そのとき大抵は「いらいら」するわけですが、「いらいら」しているときというのは自分がいらいらしていることに気づきません。「いらいら」そのものとなっています。

いらいらしていることに気づき、いらいらしても相手がそれだけ早く来るわけではないと思えば、本を読む時間が増えたとでも考える余裕が出てきます。少なくとも、貴重な時間を空費しただけでなく、その上感情をかき乱されるというような愚かなことはしなくなります。

自分のその時の状態を「知らない」から、「気づかない」から、愚かなことを続けていられるのです。

Section11 脳も身体も 過去のパターンで反応する

私達は大半の時間を、「今ここ」に存在していないものに、即ち過去や未来のイメージに反応して生きているということはすでにお話しました。

これは私たちの知らないうちに、即ち無意識のうちに、勝手に起きてしまうプロセスなのです。心が純粋に「今、ここ」に生きるということはほとんどないと言ってもいいくらいです。

何故かというと、脳の働きも含めた身体というものが、過去を蓄積していくシステムであり、この身体という蓄積された過去によって、我々は現在を生きていくしかないからです。

ブッダはこう言っています。「比丘たちよ、この身体は君のものではなく、また他人のものでもない。この身体は以前の行為によって作り出されたもの、思念されたもの、知覚されたものと見るべきである」

ご存知のように、我々の神経系というものは、外界「色・しき」と自分の行動とを結びつけるための装置です。

特定の情報に対して、特定の行動が対応するように、我々の身体は作り上げられていきます。

従って、そのような身体という一種の機械的なシステムがひとたび出来上がってしまうと、現在の情報に対しても、過去の反応パターンで反応するという転倒が起きてくるのです。

Section12 固定化した行動パターンの 洗い直し

我々の身体が、行動(欲望の充足行為)のパターンを固定化していきますと、今度は逆に、宇宙の中から、我々がもっているパターンで処理できる情報だけが取り出されてくるようになります。そうやって、我々は、自分の作り出した行動パターンに応じた物質的な世界「色・しき」というものを作り上げていきます。

従って、我々にとって客観的に存在しているように見える物質的な現象「色」とは、あるがままのものではなく、実在の宇宙の中から、我々の行動に都合のよいものだけが取り出されてきて「作り出された」現象にすぎません。これが「色即是空」ということです。

我々の心も身体も、さらには物質的現象「色」さえも、全ては実体ではなく、(「五蘊皆空」)、我々自身の行動パターンによって、がんじがらめに条件づけられたものにすぎません。

従って、我々に現れてくる物質的現象「色」とは、我々の行動パターンが外界に投影されたものだということもできます。

こうした生き方を続けていると、我々の多くは年を重ねるにつれて、各々独自の片寄りやゆがみを心身に身につけてしまいます。我々に必要なのは、自分自身が形ある世界に反応して生きてきたことに気づくことです。良いと思っても、(悪ければなおさら)自分の行動パターンを一度洗い直してみることが必要です。

Section13 外部に求めた幸せは いつか無くなる

私たちの喜びや悲しみ、満足や不満足、快や不快、安定感や不安感は、あまりにも外界の形ある物「色・しき」と結び付けられています。外界に喜びをもたらすものを求め、悲しみをもたらすものを避けるという行動パターンは、習い性になってしまって、意識することができません。

ですから、生きるということがそういう行動パターンを繰り返すことと同義語になってしまっており、それ以外の生き方というようなものを想像することもできない状態になっています。

この行動パターンの結果がうまくいっているときはいいのですが、うまく行かなくなるときが必ずやってきます。何故なら、満足を与えてくれるものが、自分の外側にあるものであるかぎり、永遠にあり続けるということはありえないからです。自分の身ですらも、病に倒れたり、死ぬということを避けることはできません。ましてや、他者の愛情とか、信頼とか生命とかが永遠に続くというようなことは不可能です。

また、自分に不快感を与える人間がこの世から全くいなくなったり、自分が大切にしていたものを失ったり、それが壊れたりするということを完全に無くすなどということはできません。自分の外部にあるものに幸福を見出そうとし続けるかぎり、私達は、永遠に立つことのない砂上の楼閣を作ろうとしているようなものです。

Section14 全ての行動を意識するトレーニングが必要

これまで述べてきたことから、われわれは、過去や未来にとらわれるなとか、つまらない心配をするなとか言われても、そう簡単にはいかないということが分かったはずです。生まれてこのかた、我々は余りに外界に影響されて生きてきましたから、「今、ここ」に生きるためには、その外界へのとらわれを少しずつ捨てていかなければなりません。そのためには、一種のトレーニングが必要となってくるのです。

仏教はそのトレーニング法をいろいろともっています。というより、仏教というのは、「今、ここ」に生きるためのテクニックを集大成したものだと言った方が正しいでしょう。

ちょっと例を挙げてみましょう。念処経という教典にこうあります。

[比丘は往くときも帰るときも、意識してそれを行い、前を見るときも後ろを振り返るときも、意識してそれを行い、両腕を縮めるときも伸ばすときも、意識してそれを行い、(略)食べるとき、飲むとき、噛むとき、味わうときも、意識してそれを行い、大小便するときも、意識してそれを行い、歩くとき、立つとき、座るとき、眠るとき、目覚めるとき、話すとき、黙っているときも意識してそれを行うのである。]

こうやって、自分の行為を徹底的に意識化することによって「今、ここ」に生きる訓練をするわけです。

Section15 ほとんどは 心配しても解決しないもの

Q1:あなたの心を探って、今、あなたが不安に思っていることを書き出してみてください。

[例]

  1. 明日の商談がうまくいくかどうか。
  2. 煙草を吸いすぎているから肺がんになるのではないか。
  3. 子供の成績が良くないので、大学入試に失敗するのでは。
  4. 今日上司と話したとき、どうも態度が冷たかったような気がした。
  5. 部下に先日かなりきついことを言ったが、内心恨んでいるのではないか。

Q2:今書き出したことで、過去のことと未来のことを選び出してください。

1、2、3 は未来のことですね。

4、5 は過去のことです。

Q3:書き出したことで、自分に解決策のあるものを選び出してください。

2. の煙草については、禁煙すれば解決します。後の四つはいずれもあなたが不安になっても事態は解決するわけではありません。

人はたいていいつでも漠然とした不安を抱いているものですが、それらを改めて紙に書き出して眺めてみると、そのほとんどが自分が心配してもどうにもならないことであることに気づくはずです。

Section16 不安に感じている自分に気づき 認める

不安から解放されるには、不安を感じないようにする必要はないのです。不安を感じている自分に気づき、そういう自分を認め、受け入れてやればいいのです。

気づきと受け入れによって、あなたは変わっていくことができるのです。これはあなたを苦しめている他のことにも、全てに当てはまるテクニックです。

上司が今日なんだか自分に対して冷たかったのではないか、と不安に思っているケースを考えてみましょう。昼間、話しているときはそれ程には感じなかったのに、夜、家に帰ってきてから、何だか気にかかるということはよくあることです。

大抵の人は、こういうとき、上司の言ったこととかその態度とかを無意識のうちに反復して、ああでもないこうでもないと堂々巡りをしてしまうのものです。

これも、自分が今、堂々巡りしているなということに気づくことが一番重要なことです。気づけば、その不安が何かの役に立つかどうかを考えることができます。もちろんこの場合には、あなたが不安に思っても、何かが分かるということはありません。上司があなたをどう考えているかということなど、上司にしか分かりません。心配することで、上司があなたのことを好意的に考えてくれるというようなことはないのですから、あなたは不安を意識的に断ち切るべきです。

Section17 意識的に 過去を切断しなくてはならない

不安を感じているときとか、心配しているときとかに、あなたの身体にどういう変化が表れているかご存知ですか。脈拍が早くなったり、血圧が上昇したり、抹消に血液が行かなくなったり、呼吸が浅くまた早くなったりしています。これは目の前に何か恐ろしいものが現れたり驚いたりしている時の反応と同じです。つまり、あなたの身体は、過去のことや未来のことで不安を感じているときにも、それを現在のものとして反応しているのです。そういう体の反応が遅れるからこそ、あなたは不安なときに眠れなかったり、食欲がなくなったりするのです。

私達の身体は、過去とか未来とかを、現在と区別することはできません。また現実と現実でないものを区別することもできません。あなたが心で思っていることにそのまま反応してしまいます。ですから、過ぎてしまったことでくよくよしている人は、過去がずっと続いているわけです。その人は現在に生きているのではなく、過去に生きていると言ってもいいのです。これは時間の無駄遣いですし、余り賢い生き方とは言えないでしょう。過去を後悔したり、未来を心配してばかりいたらその人は本当に生きる時間がなくなってしまいます。

こういうことになるのは、心が無意識に動くのをそのままににしているからです。私達は、現在に生きるため意識的に過去を切断しなくてはならないのです。

Section18 不安を感じている自分を 観察する

あなたが不安に思っていることの多くは、あなたが不安に思っても解決することができないものです。何故なら、それらは、ほとんどがすでに過ぎ去った過去のことか、あるいは逆に、まだ来てもいない未来のことだからです。また、他人が何を考えているかということも、いくら考えても分かりませんから、不安になっても仕方ありません。

不安をなくすには方法は一つしかありません。それは、何かで不安になったら、そのつど、それを不安に思うことによって解決に近づくのか、そうではないのかを考えて、考えても仕方のないことは考えないことにする、と意識的にその不安を排除することです。これは一見まどろっこしい方法のように見えますが、一足飛びに不安を感じない人間になるわけにはいきませんから、こうするしかないのです。

それにはまず、自分が不安であるということを、その瞬間に気づくようにする必要があります。つまり、自分の現在の心の状態をよく観察して、「不安を感じている自分」というものを客観的に眺めてみる必要があります。そうすると、そのように自分を観察しているときには、あなたはすでに、「不安を感じている自分」ではなくなって、「不安を感じている自分を見ている自分」になっている訳ですから、この自己観察が習慣化していけば、あなたは不安から少しずつ解放されていくはずです。

Section19 心は 思い通りにコントロールできない

あなたは、自分の心の中にあるものは自分のものだと思っているはずです。言い換えれば、考えることは自分のすき勝手にできるはずだと思っているはずです。それは事実でしょうか。

例えば、上司の態度が冷たかったのではないかという不安は、あなたが自分で自由に考えた事でしょうか。

違いますね。考えたくないのに、その不安が勝手にあなたの心の中に入り込んできたのでしょう。もし自分の考えが自分の自由意思でコントロールできるのなら、あなたは不安で苦しむというようなことはしないはずです。

ブッダの根本的な考え方は、全てのことは自分の思い通りにならないというものです。それを表現しているのが「空・くう」という言葉です。そして、この思い通りにならないものの中に、自分の心も入っているのです。心が外界に反応して勝手に動いてしまうことは避けられません。ですが、その心の動きに気づき、それが不安になったり、後悔になったり、怒りになったりするのを避けることはできます。

それには、まず心の動きを観察してみて下さい。先にも言いましたように、自分は不安になっているなと観察すると、そのときには「観察する自分」が主役になっていますから、心は動いても「不安な自分」は脇役になっているのです。それに、観察という作業を続けるうちに少しずつ心の波立も収まってくるものです。

Section20 眠れない その原因は あなたの身体

明日会議がある時、なかなか眠れなかったとします。何があなたを眠らせないのでしょうか。明日の会議に決まっている、と言うかもしれませんが、それは遠因というべきです。もっと近いものを捜してください。あなたの心配ですね。しかし、もっと直接的な原因があります。それは、心配によって変化させられたあなたの身体です。実は、あなたを眠らせないのは、あなたの身体なのです。このことに気づいてください。それに気づかないかぎりあなたの寝られないという苦は無くすことができません。

大抵の人は、自分の悩みの原因を自分以外のものに求めます。自分の身体が直接的な原因だなどということに気づかないのです。ブッダが、「これは苦である、これは苦の原因である」と自己観察するように勧めたのは、主に、自分の身体の動きに気づかせるためでした。人は気づかないことをコントロールすることはできません。逆に、気がつけばコントロールできるのです。すぐに、と言うわけではありませんが、自分の意識していることについては、人はそれを制御することができるのです。ブッダの「これは苦の絶滅である。これは苦の絶滅への道である」という苦に関する第三、第四の心理の出番です。

仏教とは、狭義の意味では、苦の絶滅への道のことを言います。道とは、別に道徳的な意味ではなく、いわゆる「方法」ということです。

Section21 ダイエットには努力するのに 苦を取り除く努力はしていない

明日の会議が不安でも、それを取り除くことはできません。時々、明日の試験が心配だからといって、学校に放火してしまう学生というのがいますが、あれこそ本末転倒というものです。(しかし、苦というものがいかにとんでもないことを人間にさせてしまうのかということの一例ではあります。)

あなたが取り除くことができるのは、あなたの「心配」です。しかし、これは口では簡単に言えますが、心配というものを簡単に取り除くことができないから、悩みがあるわけです。しかし、何故取り除くことができなかったかというと、心配というものを、よく知ってはいなかったからです。何十年も生きてきて、毎日のようにいろんなことを心配しているにもかかわらず、人は心配とは何かということを知りません。誰も教えてはくれないし、そういうことが書いてある本というものも、あまり無いからです。

心配とは、もちろん精神現象ではありますが、精神現象のみではありません。身体の現象でもあるのです。このことに気が付けば、それを取り除く方法として、身体への働きかけという、直接的な方法も実行してみてください。人は自分の身体からぜい肉を取るために一生懸命努力するのに、自分の身体から苦を取り除くためには、ほとんど努力していません。全くおかしな話です。

Section22 身体の仕組みを 知らなすぎることが原因

身体に働きかけるということは、あくまでも対症療法ではないかと思われるかもしれません。確かに対症療法の面はありますが、そうとばかりも言えないのです。常に身体を意識して、身体が何を感じているかに注意を向けて生きていくということは、新しい生き方を開いていく可能性を持っているのです。よく平常心ということを言いますが、平常心を保つには、身体が、もっと詳しく言えば身体の生理的なシステムが、常に平常を保っていなければならないのであり、そのためには、身体を整えていくことは、対症療法であると同時に、根本療法でもあるということができます。

もちろん、最終的には、本心から明日の会議のことなどは気にならないという人間になることが一番ですが、それは言い方を替えれば、「明日の会議のことを考えても、身体に生理的な変化が起きない」人間になるということと同じことを意味しているわけです。

何か、自分の「心配」が身体の問題であるなどと言われると、おとしめられたように感じる人がいるかもしれませんが、それは、身体についての偏見を持っているからに過ぎません。私達は身体のことをあまりに知らなすぎるのであり、身体がどれ程の力を持っているのかについて、知らないということにすら気づいていないのです。それが、ストレスを生み出していると言っても過言ではないのです。

Section23 心配しているとき 体内では大きな変化がある

あなたが心配しているとき、不安なとき、身体にどのような変化が起きているかを知ることが大切です。その時身体には次のような変化が起きています。

  1. 心拍の増加、血圧の上昇
  2. 呼吸が浅くなる、また早くなる
  3. 脳や主要な筋肉への血行の増加
  4. 筋肉の緊張
  5. 末端部への血行の減少
  6. 発汗作用の活発化
  7. 血中のアドレナリンが分泌
  8. 肝臓から血中に糖分が放出

心配を取り除くということは、身体からこのような反応を取り除いてやることを意味しています。いくら心だけで心配するまいと思っても、身体が上のような変化を起こしている限り、心配は絶対になくならないわけです。

さらに最近の研究では、免疫系に対しても「心配」は大きな影響を与えているという報告がなされています。唾液に含まれている免疫グロプリンの量を測定してみたところ、ストレスのかかった状態になると、その分泌量が減ってしまうのです。このことは、免疫機能が低下することを意味しますから、人は心配したり不安になったりすることで病気にかかりやすくなっていることも実証されたわけです。

Section25 精神の病の人は 例外なく筋肉が緊張している

我々は誰でも自分で作り上げてしまった行動パターンによって縛られてしまい、多かれ少なかれ、現在に生きられなくなってしまっているものですが、恐怖症とか神経症とかいう精神の病に苦しんでいる人というのは、それが極大化した形でできてしまったケースです。彼等と健康人との間には量的な違いがあるだけで、質的な違いがあるわけではありません。ですから、我々が感じている不安というものを考える場合に、彼等の症状を知ることは大変に参考になります。

精神分析が明らかにしてきたように、患者の心の中には、過去の体験が凍りついてしまっており、それ以来、その人はずっとその過去の時間の中に閉じ込められて生きています。そして現在の出来事に対しても、過去の出来事が再現したかのように反応してしまうのです。今、何気なく「患者の心の中に、過去の体験が凍りついて」と書きましたが、実際は心と身体は結びついておりますから、身体の中にも過去が凍りついています。フロイトの弟子にライヒという人がおります。彼は精神医でしたが、その治療法というのは、患者を横たえて、腹式呼吸を教えるというものでした。

というのは、精神の病におかされた人は、ほぼ例外なく、胸の筋肉に極度の緊張があり、浅く早い呼吸しかできない状態になっていて、それを治すことがまず緊急のことだということに気づいたからです。

Section26 精神の病の根源は 身体の緊張

我々は、不安なときや、怯えたとき、呼吸が浅く早くなります。

反対に、リラックスしているときの呼吸は深くゆったりとしたものです。呼吸が早くなるのは、身体全体が警戒態勢に入り、逃げるにせよ戦うにせよ、何らかの行動をとるための準備なのです。

ライヒが発見したのは、普通なら警戒態勢に入ったときに起こるはずの生理的な反応が、精神の病におかされた人の場合には固定化してしまっていて、それが普通の状態になってしまっているということでした。筋肉が鎧のように硬くなっているとライヒは言っています。これは不安から身を守るという防衛的な反応が日常化してしまったものです。

こうなってしまうと、心と身体は円環的に相互影響を与え合っておりますから、心は身体からくる警戒信号にばかり反応してしまうという悪循環に陥ってしまい、緊張が増幅していきます。そして最後には、「今、ここ」に反応することが全くできなくなってしまうのです。

つまり、精神の病というものは、不安に対して身構えた心と身体の反応が、筋肉の緊張という形で日常化してしまい、その反応パターンを繰り返すことしかできなくなってしまった状態を言います。ということは、精神の病と言っていますが、実は、決定的な役割を果たしているのは身体の緊張だということにならないでしょうか。

Section27 気づきさえすれば 心と身体の緊張は解ける

精神の病におかされた人というのは、我々が日ごろ感じている不安とか警戒心とか怯えとか抑圧された怒りとかストレスが、極限の状態で出てきてしまっただけで、彼等と我々との間に質的な違いがあるわけではありません。過ぎてしまったことをくよくよ考えたり、未来のことを心配して眠れなかったりしている状態にあるとき、人は一時的に軽い精神の病にかかっているわけです。ただ、健康人の場合は、その状態がずっと続くわけではなく、またリラックスする時間が現れるというだけの話です。

重要なことは、精神障害で精神科にやってくる人々が、自分の身体の異常な緊張に全く「気づいて」いないということです。精神が変調を来していることは感じているのですから、人がいかに身体に対して無意識であるかが分かります。

我々は、何かを考え詰めていて、突如として我に返ったりすると、ほとんど息を止めていたことに気づくことがあります。この時は、たまたま気づいただけであり、我々は、何か考えているとき、心配しているとき、怒りを覚えたときなどには、いつでも息を止めたり、あるいは極めて浅い呼吸しかしていないのです。

問題は「気づかない」ことにあります。気づきさえすれば、腹式呼吸で身体の緊張をとき、また、心の緊張をほぐしてやることはできるのです。

Section28 作り上げられた 心と身体の条件付け

ライヒの弟子にアレクサンダー・ローウェンという人がいます。彼はライヒの考えを継承して発展させ、生体エネルギー療法というものを開発しました。心の問題と身体の問題が切り離せないという立場を徹底させて、身体から心に働きかける療法です。その基本は、患者に自分の身体がいかに緊張しているかを「気づかせる」という点にあります。

ライヒにしろローウェンにしろ、彼らは期せずして、ブッダの教えを再現してしまったようなものです。日本で禅と呼ばれているトレーニング法は、ブッダによって開発された八つのトレーニング法の中の「定・てい」と呼ばれているものに相当します。これは普通、精神統一と言われていますが、実際は精神と身体とを統一させるトレーニングです。

呼吸を意識することによって「今、ここ」に生きていることに「気づき」、また身体と意識を一致させます。最終的には、行動をいっさい停止した状態において瞑想をすることにより、自分の条件づけられた行動パターンを少しずつ解体していく事が目指されています。仏教では心を「受・じゅ、想・そう、行・ぎょう、識・しき」という四つに分けて考えていますが、「受」と「想」という知覚・表象作用(ひょうそうさよう)、「行」はその近くが触発した、その知覚に条件づけられた運動が始まる段階を言います。瞑想は「受、想」と「行」との間を断ち切ることによって、これまでに作り上げてきた心と身体の条件づけを解体します。

Section29 ネガティブな思考は自動的に浮かんでくる

身体をリラックスさせてやることにより、心をリラックスさせてやることができます。逆に言えば、身体が硬直しているかぎり、心がリラックスすることできません。というのは、心にとっては身体ほど身近にある「色・しき」は他になく、身体からくる情報が心に決定的な影響を与えるからです。

「色」という言葉は、身体と外界からの物質世界との両方を指しますが、これは大変に意味深いことです。心にとってはどちらから情報が来ようが、ともに「心以外」からであることには変わりがないのです。

我々が「今、ここ」に生きていることをすぐに忘れてしまい「くよくよ」の世界に入ってしまったり、「いらいら」の世界に入ってしまったりするのは、我々が、外界からの情報というより、身体からの情報に反応しやすいからです。

外界からの情報は、身体からの情報を触発させる単なる「記号」としてしか機能していないことがほとんどなのです。

例えば、誰かがあなたの側で笑うとします。我々は、それを純粋に「笑い」として観察したりすることはめったにありません。すぐに「嘲笑されたのでは」というような自分に関係づけられた解釈が現れてきたりします。それは、その「笑い」という外界の行為がほぼ自動的に我々の身体に何らかの感情を引き起こし、そこから発信される情報の方に我々の心は反応してしまうからです。

Section30 ネガティブな人は 身体が怯えている

外界からの情報、刺激などは、全てあなたの身体から入ってきます。その入り口である身体が、ある固定的な反応に凝り固まっていたら、全ての情報はそこで歪められてしまいます。性格とは、外部からの情報に対する、その人の反応のパターンの事を言いますから、身体の硬さはその人の性格の硬さに通じるといってもいいでしょう。

全てを悪いほうに悪いほうに取る人がいます。この人にとっては、全ての情報は自分に対する悪意によって発せられたと見えるのですが、こういうことが起きるのは、その人の身体が初めから怯えたり身構えたりしているからです。

あらゆる情報はその彼の「怯えている身体」というフィルターを通って彼に達しますから、彼は自分を怯えさせるものが外界にあると逆に考えてしまうのです。

彼を怯えさせているのは、自分の「怯えている身体」だということに気づかなければなりません。気づかない限り、彼は、外界が彼を非難しているという妄想から解放されることができないでしょう。

身体を柔軟にする運動が、単なる身体の問題ではないことがお分かりでしょう。身体が自分の思い通りにならないのに、心だけが自分の思い通りになるなどと言うことはあり得ないのです。身体に「不随意」ということがあるのと同様に、心にも「不随意」というものがあることに気づいて下さい。

Section31 経営者Aさん と 部下のBさん

小さな会社を経営するAさんは、最近、五年間勤めていた部下のBが独立し、その際いくつかのお得意さんを持っていかれてしまいました。ずいぶん可愛がってやり、仕事も一から手とり足とり教えたのに、まさに恩を仇で返される、あるいは飼い犬に手を噛まれると言うのを地で言った訳です。何とか気を取り直して働いていますが、昼間は忘れていることが多いのですが、夜など、寝床に入ってしばらくすると、その部下のことが思い出されて、悔しさで寝付けなくなることが多いということです。Aさんは自分では寛大なほうだと思っており、他の会社の給料に比べて高い給料を出していたし、恨まれるようなことは何もないと言っています。

こういうケースはよくありますが、大抵の場合、この独立したBさんという人の話を聞くと、Aさんの言っていることと正反対のことを言うものです。たとえば、仕事を実際にやっていたのは自分であり、A社長は何もやらないで金を搾取していた悪い奴だ、もっと得意先を持って出てもよかったのだが、恩もあるので少しだけにしておいたのだ、という具合です。

これほど認識が違うのかとびっくりさせられるわけですが、第三者が聞いていると、どちらの言い分が正しいのか判断できません。どちらの言い分も、言っている当人から見れば正しく、反対者から見れば間違っていると言うしかないでしょう。

Section32 どうにもならないことを 考えることは馬鹿馬鹿しい

事実というものが客観的に存在するわけではないのです。誰にとっても真実だというようなことはありません。前出のA社長と部下のBの話の場合、たとえ第三者がレフリーの役を果たして、どちらかに軍配を上げたとしても、そんなことは意味を持たないでしょう。

A社長はどうしたらよいでしょうか。Bをいくら責めても事態はどうにもならないということをまず知ることが一番重要です。責めればどうにかなるならいくら責めてもいいのですが、そんなことはないのです。大抵の人はどうにもならないことをどうにかしようとして事態をますます悪くしてしまいます。すでにAさんは夜眠れないというように事態を悪化させているではありませんか。部下に得意先を持っていかれただけでなく、不眠症にまでなっているのですから。金銭的な損害に加えて、肉体的な損害まで与えられては馬鹿馬鹿しいかぎりだと考えて、その件に関してはもう考えないようにする、と決心してください。

ここで重要なことは、考えると悔しくなるから考えないようにするというのではなく、起きてしまったことは取り返しがつかないことなのだから、それにいつまでも捉われているのは馬鹿馬鹿しいと本心から思うことです。内心ではどうにかなると考えているかぎり、恨みが内向するだけで、事態は絶対に解決しません。人を責めても、傷つくのは自分だけなのです。

Section33 悟る とは 事態を受け入れること

起きてしまったことは受け入れましょう。受け入れないでどうにかなるならいつまでもこだわっていいですが、どうにもならないのですから。前出のA社長と元社員Bの場合にも、それではBが得するだけではないかと思うかもしれませんが、すでにその時点では、BはA社長の部下ではなく、つまり他人なのですから、その他人がいくら得しても、それでA社長が損するわけではありません。A社長は、Bがかつての自分の部下だったという事実を言いたいのでしょうが、今のBはそうではないのですから、Bが何をしようが、今のA社長には関係のないことです。

どんなに執念深い人でも、事件から何年か経った後ではもう怒りも収まっているものですが、それは何故か考えてみてください。それは起きてしまった事態を受け入れているからです。

受け入れているというのは、事態を自分の側から見た都合のよいようなものに作り変えたいという欲望が消えてしまった状態ということです。現実を現実として客観的に見られる状態と言ってもいいでしょう。

事態を受け入れないかぎり、事態から解放されることはありません。事態を受け入れるとは言い換えれば、諦めるということです。この諦めるという言葉は、元々は明らかにするという意味で、「明らかに知る」、すなわち「悟る」と言い換えてもいい言葉なのです。

Section34 眠れなくなる 本当の理由

諦めるということは何か消極的なことのように思われていますが、実際は、自分の意志ではっきりと事態を受け入れるという、非常に積極的な行為です。それが何か消極的な弱々しいニュアンスで捉えられているのは、諦めるということの本当の意味を分かっている人がほとんどいないからでしょう。

事態をありのままに受け入れたとき、初めてその事態は我々の心の中で完結します。完結するというのは、それが我々の潜在意識の中でうごめくことがなくなるということです。つまり我々とその事態とが葛藤することが終結するということです。

夜、我々が眠れなかったり、不機嫌になったり、だれか第三者に八つ当たりしたりというようなことが起きるのは、我々と現実とがおりあいがついていないことを、我々の潜在意識が我々に知らせているのだと思ってください。我々に受け入れられない現実は、我々の潜在意識に働きかけて、その存在を主張しているのです。

潜在意識と言いましたが、別の言い方をすれば、身体ということです。我々が眠れないのは何故でしょうか。言うまでもなく、身体が覚醒状態にあるからです。意識が眠ろうとしているのに、身体のほうが言うことを聞かないわけです。意識と潜在意識とは離反しているのです。両者を一致させてやらないかぎり、我々にはいつまで経っても安息は訪れません。

Section35 苦が発生する メカニズム

全くのあかの他人が自分の思うようにならなくても我々は当たり前だと思います。例えば極端な例ですが、道を歩いている人に近づいていって金を貸して下さいと言ったとします。当然断られるでしょうが、だからといって我々は苦しんだりはしないでしょう。あかの他人が思うようにならないということはよく分かっているからです。では、過去にさんざん面倒を見てあげた人に金を貸してくれと頼んだとしましょう。そこで断られると、我々は怒るでしょう。恩知らずとか裏切られたとかいう思いが沸き立ってくるでしょう。つまり、我々は苦悩の状態に陥るのです。この二つのケースを比べてみれば、なぜ苦が発生するのかそのメカニズムがはっきりしてきます。

二つのケースで、違っているのは、事前に我々がどのような状態を予想していたかということです。全く期待していない場合には苦は発生しません。我々の自我の思い通りになると予想していた場合に苦が発生するのです。遺産相続を巡って、血族が骨肉の争いをしたりするのは、誰もが期待に胸を膨らませているからです。自分の思い通りになるのではないかと自分の都合の良いようにものごとを考えているからです。だから、初めからなかったと思えば、どんなに少額でも不満などあるはずもないのに、取らぬ狸の皮算用で計算した額より少ないというだけで、極端な場合には殺し合いまでやってしまう程、我々は自分を制御できないのです。

Section36 遺産相続で 殺し合いになる理由

前出の遺産相続問題には、仏教で煩悩の代表とされている三つが全て絵に描いたように出揃っています。その三つとは、三毒とも言われている貪(どん)、瞋(しん)、痴(ち)で、三つとも、その根底にあるのは、事態を自分の思い通りにしようという欲望です。

貪とは、貪欲のことで、これはストレートに事態を自分の思い通りにしたいという情念の事を言います。次の瞋とは怒りのことで、これは、事態が自分の思い通りにならないときに起きる情念です。最後の痴とは言うまでもなく愚かということです。遺産相続問題では、まず遺産を自分の思い通りにしたいという貪の煩悩に駆られて遺産の取り合いが始まり、それが自分の思い通りにならないと分かったときに怒りの煩悩が現れ、最後に殺し合いという愚行に至り着いたわけです。これら全ての根底にあるのが、事態は自分の思い通りになる、自分の思い通りにしたい、自分の思い通りになるはずだ、という迷妄なのです。

ブッダは、他社は言うまでもなく、自分すらも自分の思い通りにならないと言っています。それが自我(エゴ)が空、すなわち実体ではないということの意味です。我々は実体のない物質世界の感情・自我(エゴ)につき動かされて、真の勝利者のない戦いを続けているのです。ブッダが目覚めよと繰り返し説いたのは、まずこうした自分の状態に気づきなさいということです。

Secttion37 自我の究極は 戦争までエスカレート

人間関係においても我々は、外界(他人)にすべてを求めようとして、愛し、求め、自分の期待どおりでなかったといって、不満を感じ、怒ったり、失望したりします。

しかし究極のところ、他人と自分の関わり方というのは、自分自身が自分をどのくらい受け入れ、愛したり、憎んだりしているかを映し出す鏡と言えるでしょう。

自分を信じられない人は他人を心から信じられないし、自分を愛せない人が他人を心から愛すなどということはないし、自分を憎んでいる人は他人をも憎むでしょう。

他人が自分を憎み、傷つけるから、自分もその憎い奴を憎み、傷つけるのだという考え方を続けるかぎり、苦の世界から抜け出すことはできません。

嫌な奴、間違っている奴、憎い奴がいるから世の中が悪く、自分が苦しむのだという被害者意識を持ち、そういう人間がいない世の中になれば、この世に苦はなくなると、我々は考えがちです。

しかし、こういう考え方を推し進めていくと、我々は自分を傷つける人間をなくすために、人の失脚を願ったり、死を願ったりするしかなくなってしまいます。これが民族や国家単位になると、あいつらは間違っている、憎いとなって、その連中を絶滅するべきだという所までエスカレートし、粛清や戦争へとつっ走っていくのです。ヒトラーもスターリンもそういう「無明の達人」でした。

Section38 憎しみは 憎しみとして 自分に返ってくる

悪い奴だから憎み、滅ぼすべきだという考え方は世界中に蔓延しています。

歴史上に現れた世界の多くの政治家、指導者が、この考えのもとに政治をし、戦争を起こしてきたといって間違いないでしょう。そして、ついに本当の敵を絶滅できる核兵器まで開発してしまったわけです。

この敵を滅ぼそうと作られた核兵器は、開発した当事国を含めた地球全体を滅ぼす危険性を持っています。これは自分の憎しみの妄想によって行動する人間が必ず陥る罠なのです。敵を滅ぼそうと振り上げた刃はいつか必ず自分の上に落ちてくるのです。

なぜなら、憎しみというものは、それがどこへ向けられているように見えても、最終的に自己に向けられているからです。自分を憎み脅かしているのは自分なのです。このことをよく理解していた偉大な指導者がインドの独立運動を成功させたガンジーです。

彼は誰をも憎しみの対象とせず、独立運動においても非暴力主義を貫きました。イギリスを敵として戦うことはせず、ただ自分たちが同意できないことには決して同意しないという態度を貫いただけです。

イギリス側が銃によって弾圧しても、ガンジーは、それに対抗して暴力で応じることは決してしませんでした。

暴力(憎しみ)に対して暴力(憎しみ)で応じれば、それは永遠にくり返され、やがて自分たちをも滅ぼすと知っていたからです。

Section39 自分の心の動きを知る知恵 般若

自分のうちに怒りがあるときに、「怒りがあると知る」ような知恵のことを「般若・はんにゃ」と言います。普通の知恵は外側ばかりに向いていて、自分の心に向くことがありません。いわゆるサイエンスは全て外側に向けられた知恵によって作られました。

それに対して、自分の心の動きを「知る」のが「般若」の知恵です。自分が「今、ここ」に生きていると気づくためには、この「般若」の知恵が働くことがどうしても必要です。

日常生活を送っているときには、この「般若」はほとんど働いていません。その時には、我々の心の外側の世界に釘付けになっていて、無意識のうちに、快を求め、不快を避けようとばかりしています。そのように条件づけられているからです。

だから、その時には、我々は「本来の自己」を忘れてしまっています。感情・自我(エゴ)が勝手に事態を判断し、我々はその感情・自我(エゴ)の奴隷となってしまって、「今、ここ」に存在しないことに対して、怒ったり、後悔したり、心配したりしています。それが苦の源泉です。

全ては我々が自分のやっていることに「気づかない」、本来の自己に「気づかない」ことから起きてくることです。それに気づかせるのが「般若」なのです。

「色・しき」も空(くう)であり、また自我(エゴ)も空であることに気づかせてくれるのが「般若」なのです。

Section40 習慣づければ 般若の知恵が身につく

「般若・はんにゃ」の知恵によって自分に「気づく」ことが、なぜ苦から脱出することにつながるのかが少しでもお分かり頂けたかと思います。

「般若」の知恵を徹底的に開発して完成に導いていこうとするのが、知恵の完成すなわち「般若波羅蜜多・はんにゃはらみた」の教えです。これを本格的に究めていくには大変な時間がかかることは言うまでもありません。

忙しく働いている人たちに、仏教のトレーニングをやれと勧めるのは余り現実的とは言えないでしょう。しかし、何度も述べたように、何かがうまくいかなくて「くよくよ」しているときに、自分が「くよくよしていると知る」ことや、いらいらしているときに、「いらいらいていると知る」のも、ささやかながら「般若」の知恵であることに変わりはありません。このようなことは、少しずつ習慣付けていくようにすれば、誰にでもできることです。そうすることで、日常生活のささいなことですぐに不愉快になったり、怒ったりするようなことはだんだんと少なくなっていくはずです。

大変重要なことは、「般若」は我々の誰もが自分のうちに初めから持っているということです。それを見つけるためにどこかへ行かなければならないというようなことはないのです。既に自分の中にあるものを開発して完成させていけばいいのですから、やる気さえあれば、今日、今からでも「般若」の知恵を磨いていくことはできるのです。

 

 

引用:自己実現のための般若心経活用ハンドブック

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